昭和50年代当時の高校生のご多聞に漏れず、周りからの刺激を受けて原付の免許をとる。
手に入れたばかりの新車のCB50のウインカーが点かなくなり、購入したバイク屋持ち込んだところ、
店主が原因究明に四苦八苦しているのを横で見ていたら原因が解り、指摘したところあっさり直ってしまった。
この時、バイク屋のオヤジから「君、すごいね、バイク屋になれるよ!」という言葉をもらう。
根拠の無い自信を持っていたこの頃、煽てられてた事に気づかずこの言葉が心の深くへ入ってしまったらしい。。。。。
それ以来、現在までの長いバイク人生で、保険修理以外でバイク屋のお世話になった事が無い。
その当時は特にエンジンに関しての興味が強く、見よう見まねのチューニングを施して調子を崩してしまった事多数。(良くなる事の方が全然少なかったと思う)
速く走る事への興味も強く、友人らといつも競争しながら走っていたので転倒や事故暦多数。
当時はヤフオクなどは無いので、常に数店の解体屋の在庫を把握していて、乗っているバイクのスペアエンジンは常に手元にあった。
HRCへ入りたかった夢を自ら壊してしまい、ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン(当時)の門を叩く。
ここでそれまでのバイクに対する考え方を大きく見直さなければならなくなるほどの刺激を受ける。
現在の考え方の基礎を植えつけられる事となった。
ヨシムラ在籍中、友人の空冷YZ250を借りて富士山頂制覇。
数年後、座間にあった幻のチューニング屋にて修行。レース前日、手と紙やすりだけで一晩かけてシリンダボーリングした事も。
ネジをまともに締めたり緩めたり出来るようになるのには10年かかると言われる。
そんな大袈裟なとの想いを10年後に改める事になる。
有り金を掴み妻を連れてアメリカへ。
いろんなバイクショップやチューニングショップへ飛び込み見て歩く。
ロブマジー本人にもファクトリーを案内してもらったり、
WBの代理店契約書をもらったり。。。。。
バイク屋としての独立の為、ドクター須田へ営業として入社、
全然バイクを売れなかったのでいつのまにかメカニックへ。
全国から集まってきた難修理や重整備を率先してやらせてもらう、
又、チューニングメニューの開発もやらせていただく。
営業をやるつもりがやはり現場仕事が楽しくてしょうがなかった。
バブルの時期らしく、アメリカへボンネビル遠征なども。
数年後、お世話になってた稲城市のプロテックの空き店舗にてクレバーハンズを開店。
いざ開店すると、スクーターのタイヤ交換の手順を知らなかった自分に驚くも、
プロテックの社長に助けてもらいながらなんとか軌道へ乗せる。
15年後の平成20年に八王子市へ移転、現在に至る。